インタビュイー
ヤノベケンジ 現代芸術家
※肩書・プロフィールは取材当時のもの
芸大進学に反対する父親、大学でのさまざまな学び
― ヤノベさんは、いつごろ芸術家として生きていくと決めたのですか?
子どもの頃から工作やものづくりが好きでした。小学校の頃は漫画を描いて、クラスで人気を得ていた。だから、クリエイティブなことをする人間になりたいと思っていました。でも、趣味と生業は線引きがありますよね。その線引きが見えたのは、大学のときです。
― ヤノベさんは、ご家庭の反対もなく、芸大に進学なさったのですか?
いや、父はサラリーマンで、芸大に進むことに、めっちゃ反対されました。父は「芸術家といえば岡本太郎さん」、そんなイメージしかもっていませんでした。ちょうど岡本太郎さんがテレビでもてはやされていたころで、「あんなふうになるんか」と小馬鹿にしたような言い方を僕にするわけです。
さらには「芸術家は死後に作品が売れたり、成功したりするんだから」「仕事はサラリーマンか公務員。自分はサラリーマンをして、家族のためにずっと家庭を守ってきたんだ」とも。
親父自身が、早くに実の父親を亡くして、貧乏を経験してきた人でした。親父からすると「自分みたいな苦労をさせたくないから、きちんと働け」と。でも僕は、そんな親父の言葉を聞くと、反骨精神が湧いてきた。「家族のために我慢して生きてきた」、そんな大人にはなりたくないと思いました。
― そして大学は、自分の意思を通して芸大に進みます。
1年浪人して、京都市立芸術大学の美術工芸学科で彫刻を専攻しました。もとはといえば、僕はSFや特撮映画が好きなオタク。コスプレが好きで、特撮ヒーローや怪人の衣装を自作するような高校生でした。だから映画の小道具やおもちゃがつくれるといいなと、技術を培うつもりで大学に入りました。ただ学ぶにつれて、入学する前にいいなと思っていた映画の小道具などをつくる仕事が、当初ほどおもしろく思えなくなっていた。「請負仕事ではなく、オリジナルを作り出さないと、自分が満足できないんじゃないか?」という気がし始めていたんです。
同時に、大学の先生たちは美術史をひもときながら、当時の現代美術の型にあてはめる指導をしていた。僕は、そのアドバイスは一応聞くのですが、内心は「おもしろくないな」と思っていた。
さまざまな思いがよぎる一方で、親父は相変わらず「サラリーマンとして働け」。これは大学を卒業するまでが勝負だな、と。親父が認めるような功績を学生時代に残さないと、というプレッシャーもあった。
学部生のときはいろんな気持ちが混沌としていました。ただ、「自分の好きなことをアートの文脈で作れたら、おもしろいものになるんじゃないか?」という予感だけがありました。
コラム
ヤノベケンジさんのあの頃
高校生の頃のヤノベさんが夢中になったのは、『仮面ライダー』や『ウルトラマン』のキャラクターのコスプレだ。「洗い物用のキッチン手袋を使うなど、高校のときは、見様見真似で素材を集めて、いろいろなコスプレをしていました。SF映画のセットを作りたいと真剣に思った時期でした」。
ロンドンへの留学で美意識の原点に気づく
学部の卒業が迫ると、葛藤がありました。いわゆるモラトリアム(猶予期間)として院への進路を選びました。
ただ、学部在学中に精力的に作品を制作してはいたんです。自分が何をするべきなのかを、追求していた感じです。それが評価されたのでしょう。僕が入学した1989年にロンドンのロイヤル・カレッジ・オブ・アートという大学院大学との交換留学制度が始まりました。その第1回に僕が選ばれたんです。
3ヶ月間ロンドンで過ごし、大英博物館や国立のナショナル・ギャラリーを訪れました。すばらしい絵画作品が並ぶナショナル・ギャラリーで痛烈に思ったのは、ヨーロッパで生まれ育った子どもたちにとって、ゴッホのひまわりに影響を受けるのは自然なこと。そんな西洋美術の文脈で戦っても、勝てるわけがない。だったら、日本生まれの自分にとって、最も影響をもたらしたサブカルチャーを、自分の美意識、オリジナルを生み出すときの核心としてもとうと思ったのです。自分とは何か、何をすべきかの答えが見えた感じです。
イギリスでは語学もさほど堪能ではなかったので、最終的にその3ヶ月のあと、引きこもり装置のようなものをつくりました。その作品が、帰国後に作ったヒト型のメディテーション・カプセル《タンキング・マシーン》につながっていきます。
《タンキング・マシーン》のアイデアが浮かんだ夜は眠れませんでした。「ああ、こんな作品がつくれるなら、自分はこれからアーティストとして名乗っていけるのではないか」と思えた。1990年のある日の夜です。

― 他者の評価を受けてではなく、ご自身が、自分で思い付いたアイデアをもとに、アーティストとして生きていくと決めたことに、ヤノベさんのすごさを感じます。
ただ、「こんな作品が作れたら、もう怖くない」という思いとは裏腹に、お金がどんどんなくなっていく。同時にいろんな作品をつくっていて、アートにお金がかかることがよくわかった。
そんな状況で、《タンキング・マシーン》は、1990年の第1回キリンプラザ大阪コンテンポラリー・アワードで優秀作品賞を受賞します。そのおかげで、当時、貯金が300円しかなかったのが100万300円になった(笑)。
時代は、ちょうど同世代の村上隆さんや奈良美智さんらサブカルチャーを引用する若手作家の黎明期でした。僕もそうした時代を担ってきた芸術家のひとりと思います。
― そのあと、お父様はどう説得なさったんですか?
そりゃ簡単ですよ。新聞や雑誌の取材を受けたら、親父は舞い上がりますよ。「やったな!」、自慢の息子です。
創作に賭ける姿勢を見せるのが「先生」
― ヤノベさんはいま、芸術家としてだけではなく教育者としての側面もおもちです。京都芸術大学にウルトラファクトリーを構えておられます。
自分だけじゃなくて学生も、何もないところから作品が生まれるのは、すごいことだと思うんです。その瞬間に立ち会えるのは貴重なことです。教育機関として、学生たちの花咲く瞬間、あるいは学生が自分の可能性に気づく瞬間に立ち会えるのはすごい。これは、自分も学生も他のアーティストも等しく尊いこと。後に、僕がウルトラファクトリーを立ち上げるとき、そこはクリエイターたちのエネルギーの坩堝(るつぼ)でありたいと思いました。この世の天国みたいな場です。
― ヤノベさんのなかに、若者を応援する目線を感じます。
いやいや、自分の才能や、自分のなかにあるものには限りがあるし、自分が優秀だとはちっとも思っていないので。だから、他のクリエイターや分野が違う人たちと出会って、刺激し合うのはいいですね。
― 他の取材のときにお邪魔しても、ヤノベさんはいつも作業着で、制作しておられる様子を見かけます。
僕は好きなことしかやってないんですよ。帰っても食べて寝るだけ。ずっと作ることを考えているし、夜中起きたときに「あれやっとかなあかん」と思ったら、メールしたりスケッチ描いたり。仕事をしている感じじゃないんですよ。
企画からスケッチ、作業。そんな作品づくりのすべてが楽しい。そういうときにアイデアも浮かんでくる。最近は機会を与えられることも多くて、それに対して応えるのも楽しい。
だから子どもにも「お父さんは、いつ死んでも大丈夫だから。満足した生き方しているから、別に悲しむこともないし」っていえる。
― 若い人へ伝えたいメッセージはありますか?
ウルトラファクトリーは、ある種の徒弟制度みたいなところがあります。座学で指導して評価するのではなく、僕が全力で作った作品を世の中にぶつける。その姿とどんな態度で創作をしているのか、創作に賭ける姿勢をみてもらえれば、すべてはそこにあると思うのです。それが先生というものかなと思っています。
編集長からひとこと
自分とは何をすべき人なのか。
明確にわからない時期が、若い時にはきっとあるはず。
それをじっくりと考えたからこそ、今、仕事が楽しい。
年がら年中、作業着姿で黙々と創作するヤノベさんが、たまらなくかっこよく見える理由がわかりました。